自然の一部としての人間、その息づかいや気配に向き合って創作活動を展開する丹羽康博。大学で彫刻を学んだ丹羽は、西洋美術における彫刻概念への思索と、いわゆるアカデミックな制作態度への模索を経て、独自の立ち位置を見いだしつつある作家である。「ファン・デ・ナゴヤ美術展2012 “緘黙する景色”」に参加した丹羽の出品作がとても興味深かった。この展覧会は四人の作家それぞれの言葉が、作品として立ち上がる場面を交差させながら、静謐で理知的な景色を生み出すという、意欲的な企画展であった。そこでの丹羽は、床面におびただしい数のガラス瓶を置いた。高さ15cmほどの、食料品等を保存するラベルの無い瓶に、閉じた銀色の蓋。空っぽの何も入っていない瓶の蓋にはタイトルの《Three minutes breathing》と日付、サイン。丹羽は“3分間の呼気”を瓶に封入するという作品を、毎日つくり続けたのだ。その作品の佇まいに、“ひとり”である正直さというか、とても潔い印象を受けた。日々増えていく瓶は、大仰さはみじんもないが、確実に素材(物質)と行為が対応して、存在している。やはりこれは彫刻なのである。 しかしいま、丹羽は彫刻であるか否かさえも超えて、場や空間に寄り添っている。「荒野ノヒカリ」において丹羽には、トンネルの内部空間ではない場所へのアプローチを要望した。竹林広場を抜けて東屋を見渡し、小道を抜けると至る庄内川(玉野川)の川原。丹羽は、廃線トンネルの再生活動を推進するNPOメンバーがこの場所の景色を大事にしていることを実感したという。さらには、川原周辺にある石をとおして、かつてこのトンネルや線路を築くのに膨大な敷石やレンガが運ばれたこと、さらには蒸気機関車が人や荷物を運んだことを想起した。「運ぶ」という営みをとおして、その場所の気配と対峙し、訪れた人にもその痕跡を提示する、まさに“行為としての彫刻”への挑戦だ。 ただ、石を運んで集める。 何度も豪雨で石が流された。運ぶこと、積むことには、造形への目的はない。たぶん、それをいかに排除して、“ひとり”の人間の限度を知る、いわば修行のような試みではなかったか。それは、とても芸術的な行為だったと思う。

名古屋芸術大学准教授 高橋綾子
愛岐トンネル群・アートプロジェクト2013「荒野ノヒカリ」記録より



展覧会名 荒野ノヒカリ
場所 愛岐トンネル群
会期 2013年9月7日〜10月27日